旧年中は格別のご高配を賜り厚く御礼申し上げます
本年も何卒宜しくお願い申し上げます。
当ブログでは、毎年年頭にその年の日本を占うコラムを書くのが恒例となっております。
つきましては、本年もさっそく見ていきましょう。
2022年の日本は活発な年になるといえます。
人々の活力が増し、物事がダイナミックに変化します。
しかし、新型コロナウイルスはまだ収束したとは言えない状況です。人々が活発になれば、その分ウイルスも活発になるという解釈もあります。
ただ、ワクチンのブースター接種と飲み薬の普及により、徐々に安全を取り戻していくことが予想されます。
それに伴い、ビジネスでは、外食産業やレジャー産業、旅行業が復活していきます。
今までのストレスを発散するかのように、様々な消費も増えていきます。
しかし、ただ待っていればすべてが元の状態に戻るというわけではありません。待ちの姿勢では、せっかくの運気の波に乗ることができません。
コロナ禍の中で思索を練り、コツコツと努力をしてきた人は、大きなチャンスをつかみます。
また、今年から何か新しいことに挑戦しようとする人にも幸運が巡ってきます。
ですからコロナが終わったら、のんびり過ごすというよりは、積極的に動くべきでしょう。そういう人にこそ運が向いていきます。
特に、時代の変化を捉えて、何か新しいことに乗り出すことができる人には、さらなる運気の上昇が望めます。
しかし、いったい何をすればよいのでしょうか。
旧年中は格別のご高配を賜り心よりお礼申し上げます。
本年も何卒宜しくお願い申し上げます。
当ブログは、毎年の年頭にその年の日本を占うコラムを書くのが恒例となっております。
つきましては、本年もさっそく見ていきましょう。
2021年の日本のテーマは、当然コロナ禍からの脱却ということになります。
景気は回復基調になり、大忙しの年になります。
しかし冷静に見れば、ダメージを受けていたものが回復するだけとも言えますから、大きな実りが得られるわけではありません。
希望の光が見えていても、過度の期待は禁物です。
そもそも、コロナでダメージを受けていた経済が、今年中にコロナ以前の状態に戻れるかどうかすら微妙です。
最悪のシナリオとしては、コロナウイルスの強力化でワクチンが効かないということを言う人も居ます。
しかし、そういった悪い流れが継続する可能性は低いと思います。
なぜなら、太陽黒点の数がすでに底打ちしているからです。太陽活動が活発になるとともに、人類もその悪い時期を脱していくであろうと思われます。
ですから、あまり暗い気持ちになる必要はありません。何事にも前向きな気持ちで居て良いでしょう。
ただし、株価などは景気回復を先取りして上がりすぎていますので、投資関係は注意深くなる必要があります。
今年の日本は、止まっていたものが再開するという年ですので、コロナ脱却ともピタリと符号します。
オリンピックなどの延期されていたイベントも開催されるでしょう。
例えて言えば、冬ごもりが終わり、春のようになりますが、真夏にまでは行かないような年です。
経済は好転しますが、その原動力となるものがないようです。ここでいう原動力とは何かと考えますと、お金ではないようですので、人ということになります。
ビジネスでは、労働力や顧客が思うように集まらない年になりそうです。やはり、好転しても成長や拡大はできない、ということになります。
地味で慎重な行動が大事な年なのですが、保守的でいれば良いというわけではありません。
コロナによってもたらされた社会の変化は、このまま元に戻らない部分があるでしょう。
たとえば、テレワークの継続で、大きなオフィスの需要が減るかも知れません。同じように、ネットからリアルへの回帰は上手く進まないと思います。
ビジネス以外でも、何も考えずにコロナ前と同じことをするのは時代遅れとなりかねないでしょう。
ただし、昨年の間に人生で苦労をしたり、努力や忍耐をしいられた人は、精神的に大いに成長しています。より器が大きくなり、物事をよく見通せるようになっているはずですから、無理なく時代に適応していけます。今年は自分に自信を持って行動すると良いでしょう。
それでは次に、生年別の運勢を簡潔に見て行きましょう。
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新年あけましておめでとうございます。
旧年中は格別のご愛顧を賜りまして、厚く御礼を申し上げます。
本年も変わらぬご厚情をよろしくお願い申し上げます。
当ブログでは、年頭にその年の日本を占うのが恒例となっております。
つきましては、本年もさっそく見ていきましょう。
2020年の干支は「庚子(かのえね)」。
この年は新しいことが始まると言われています。そして、新しいことを行う人が歓迎される年ともなります。
2020は切りのいい数字であり、2020年代のスタートですから、世界的にも何か新しいことが起こりやすいです。
ただし、この新しいことには、ある特徴があるのではないかと思われます。
まず、新しいことといっても、古いことの方向転換が今年起こるわけではないのです。さらに、見たこともないような全く新しいことが起こるわけでもないのです。
なぜなら、新しい流れの方向性はすでに昨年までに決まっているからです。
例えば日本は新元号に代わったり、消費税の増税もありました。
今年は東京オリンピックがありますが、それもすでに決まっていたことに過ぎません。
ですから、あらかじめ定まっていた新しい流れが本格化していくのが今年だということなのです。
新しい流れの例として、世界に目を向ければ、クリーンエネルギーへの転換や新興国のさらなる発展、AIの発達、移民の増大などでしょうか。これらが今年から今後10~12年で本格化、成熟化するはずです。
ネットに押されて凋落しつつある産業が完全消滅することもあります。日本で今年春に開始予定の5Gネットワークなどもそれを後押ししそうです。
顔認証、自動翻訳、自動運転なども今年を境に当たり前の時代に突入することとなるでしょう。あるいはまた、ダイバーシティ、ポリティカル・コレクトネスなどが更に進んでいきます。
個人としては、これらに納得できない方も多いことでしょう。しかし、ご自分の希望どおりの未来にならなくても、流れを見ておく必要はあります。
日本に限れば、消費税増税の悪影響、オリンピック後の景気悪化などがあるかもしれません。
さらに東京一極集中、少子高齢化、低成長、格差拡大なども加速しそうですが、これらも想定内のことです。
逆に、これらの問題の対策が本格化する年にもなりえます。
こんな状態の時、個人に必要なことは、やはり新しい行動です。昔と同じことをしていればあっという間に置いていかれます。
しかし、焦らず、つとめて冷静に行動しなければなりません。時代の流れを見る必要があるからです。
自分の感性に基づいて新しい行動すればよいわけではなく、また、自分が温めていた計画を実行すればよいわけでもありません。あくまでも時代に適合した行動が必要となります。
自分や内輪だけを見て行動すれば、時代とズレたことをしてしまいかねません。
逆に、徹底的に時代の流れに抗うのなら、それもまた良いでしょう。本気で抗うのなら、少なからず人々の支持を得ることも出来ます。
干支を別として日本を占えば、今年は人の流れが活発になります。オリンピックの観光客だけでなく、ビジネスや政治的な外交なども活発になりそうです。しかしこれは良いものばかりとは言えません。かつて経験したことのないような難題を乗り越えなければらなくなります。
金運は低い年ですので、経済的に伸び悩む可能性が高いです。しかも、過去の贅沢や散財の反動としてそれが現れる年ですので、オリンピックと重なるのが不気味でもあります。
忍耐の年でもあり、いつも以上に努力が必要になる年です。これは国民一人ひとりにも関係してくることとなるでしょう。
また、水難の年になりますので、身近な水害には注意したほうが良いでしょう。
それでは次に、生年別の運勢を簡潔に見て行きましょう。
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新年あけましておめでとうございます。
謹んで新春の祝詞を申し上げます。
旧年中は格別のご高配を賜り心よりお礼申し上げます。
本年も何卒宜しくお願い申し上げます。
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それではさっそく本年も見ていきましょう。
今年2019年は、己亥(つちのとい)の年。己亥なので、物事の条件が整う年、力が充填される年といえます。
となりますと、今年は次なる行動を待つ時とも解釈できます。
たしかに、思い当たる節もあります。たとえば2020年の東京オリンピックというビッグイベントから見れば、今年はその前年。最後の準備の年となります。
では今年は単なる「待ち」の年なのでしょうか。いいえ、そうとは言い切れません。
むしろ実際の所は、大きな物事が早くもスタートする年となりそうなのです。
確定していることだけでも、皇太子さまが新天皇にご即位され、新元号が施行されます。そして、消費税率の引き上げや、日欧EPA発効などの経済上の大きな出来事があります。昨年末12月30日発効されたTPPも、その影響が出るのも今年からです。
おそらく、皆様の周りでも、大きな変化が起こるかもしれません。新しい出来事がご自身にも関係してきたときには、準備に固執せず、思い切って飛び込む勇気も必要です。
また今年は相剋といって、天災、波乱、対立の多い年とも解釈できます。
日本は元々天災が多い国ですので、これには備えておくしかありません。あとは迅速な行動が必要となります。
準備しつつ迅速に行動する。災害に対してだけでなく、仕事や人生の面でも同じことです。
それが皆様にとって、ビジネスの判断のことか、大きな買い物や投資、生活上のことになるのかはわかりません。
ただ、怪しい雰囲気を感じたときには、早めに準備をしつつ、いざ危ないと思ったらさっと逃げる。今年必要なのはそういうことでもあります。
日本全体についてもう少し占いますと、今年の日本には、大きな決断を迫られたり、白黒がはっきりつくようなことが起こります。一方、名誉のある事柄にも恵まれやすいため、これらは良い結果につながることが多いように思えます。
日本には国際的な注目が集まりやすくなるといえます。まだオリンピックの前年ですが、さっそく注目される出来事が起きます。プラスに転じれば、日本の発言力や競争力が増す可能性が高いです。日本製品を海外に販売している企業にとっても、追い風にもなります。しかし、ここで多くの日本人が自惚れた行動をとってしまえば、逆にダメージとなってしまいます。
また今年は何かと騒がしいことが起こりやすくなります。騒音や人の声であふれかえる出来事に縁があります。
コンサートの盛況や商売繁盛などの喧騒なら吉と出ます。しかし、これも災害の轟音を表しているかもしれません。
あるいは、あちこちで苦情が殺到して世の中が騒がしくなることも考えられます。
予期せぬ騒動に見舞われないように想定しておくことも大事です。
個人生活に関しては、やはり精神的に落ち着かない年となります。
たとえ生活に不満がなくても、なんとなくきまりが悪かったり、先行きへの考えが変わったり、周りにばかり目を奪われて、自分のことが疎かになってしまいがちです。
かといってこういう気持ちに無視を決め込むのがよいというわけでもありません。新しい出来事に飛び込むのも良いと申し上げましたとおり、ときには機敏に行動しなければならないときもあります。
では、どうすればよいのでしょうか。そのためには、やっていいことと悪いことを即断できるようにすればよいのです。
その判断基準は、「徳を積む行動かどうか」ということです。
もしも見栄を張りたいとか、目立ちたい、楽しみたいだけの気持ちで行動するならば、それは控えることです。
とくに、騒がしいところ、人が多くいるところに行ってみたいという気になった時は、本当に自分がそうするべきか考えるべきです。
自分にとって楽しそうだとか、利益がありそうな方に進みたくなるのが人間の性ですが、ここはあえて徳が高いかどうかを基準に考えてください。
たとえば人助けになるとか、社会貢献になるというのなら良いでしょう。
そういうことでなければ、無視して自分のすべきことに集中するとよいです。
過去の己亥の年に起こったことをwikipediaなどで調べても、歴史に残るのは大きな事件ばかりなので、「今年は大きな事件が起きる」と勘違いしてしまいます。
国家や著名人の行動は、個人には意外と関係がないものです。
あまり気にしすぎてしまえば、人間の成長の足を引っ張る事も多いのです。
周りに流されず、ご自分の発展を信じて、しっかりと実りのある年にしていただければと思います。
それでは次に、生年別の運勢を簡潔に見て行きましょう。
※下記はすべて、誕生日が節分より前の方は前年とします。(例.1983年1月15日生まれの方は1982年生まれとしてください)
1919年、1928年、1937年、1946年、1955年、1964年、1973年、1982年、1991年、2000年、2009年生まれの方
強運の年。今まで願っていたことが叶うため、積極的で強気な行動に出たくなるはずです。こういうときは、難しいことや面倒なことにもチャレンジすると良いです。
ただし、無駄に誰かと競り合ったり、相手に敬意を払わない行動をしてしまえば、あとで問題となりやすい年でもあります。どんなに強運な人でも、他者やお金は大事に扱わなければなり
ません。
見栄の張り合いやギャンブルにのめりこんでしまうと目も当てられません。
せっかくの強運の年を台無しにしないためには、強運を常に他人のために使ってあげるくらいの気持ちがあるとよいです。それができれば、今年を境に、一生を良いものに変える可能性
すらあります。
1920年、1929年、1938年、1947年、1956年、1965年、1974年、1983年、1992年、2001年、2010年生まれの方
今年は運気が停滞してしまいます。人から迷惑をかけられたり、裏切られたり、何かを奪われたりしやすいです。
たとえ被害が少なく済んだとしても、良い交流は来なくなってしまいます。
特に昨年までが順調だった人は注意が必要です。こういうときは、行動を控えめにするとよいでしょう。
なにか大きなことをしなければならない時は、あらかじめ入念な準備をしておくと良いです。
なにか嫌な年だなと身構えていると、意外にも良い話が舞い込むということもあります。ですが、やはりそこは用心してください。
過去のご自分の経験や勘、周囲のアドバイスに耳を傾けて、ごく慎重に事を進めてください。
1921年、1930年、1939年、1948年、1957年、1966年、1975年、1984年、1993年、2002年、2011年生まれの方
成功・発展の年。
新しい人や環境と出会い、自分の可能性が広がっていくのを感じることができます。それでいて気持ちには余裕があります。
何事にも積極的になってよいですが、あれもこれもと手を出せばよいわけではありません。自分を見失って、ついには迷ってしまうこともあります。
本来の自分の目的に合致したことかどうか、よく見極めることが大事です。
新しい人間関係において、無理に自分をよく見せたり、大きく見せようとしてしまうことがありますが、これらは必ず裏目に出ます。
堅実で誠実な態度があればこそ、チャンスを活かすことができるのです。
チャンスが多いときに限って、積極的になれず心細く感じることもあるかもしれませんが、そういうときはあえて人に弱みを見せてアドバイスを乞うと良いです。
1913年、1922年、1931年、1940年、1949年、1958年、1967年、1976年、1985年、1994年、2003年生まれの方
運気好転の兆し。明らかに積極性が増し、それに応えるかのように状況も味方してくれます。
内気で陰気な性格の人が、今年を期に外交的でリーダーシップが取れる人物に変わることもあります。
いままで考えつかなかったようなことを思いついたり、それを行動に移すことで、良い結果がついてきます。
人の反応が変わりますから、今まで秘めていたものを表に出すのも良いです。
予測していなかったような、新しい出来事や楽しい出来事が、仕事や私生活に舞い込みます。
しかし、体力とお金がそれについていかないことが弱点となります。
無理をすればどちらも失うことになります。欲をかきすぎていないか考えてみるとよいでしょう。
また、いままで不安に思っていたことが現実化することもあります。心当たりがあれば、できるだけ先に手を打っておくことです。
目まぐるしい年ですが、リラックスタイムを設けたり、食事や睡眠に気をつけて心と体をいたわることができると、問題なく過ごせそうです。
1923年、1932年、1941年、1950年、1959年、1968年、1977年、1986年、1995年、2004年生まれの方
何かと問題点が見えてくる1年になります。その反面、気力は充実していますので、余計にイライラや怒りを感じることも多いでしょう。
しかし悪い年とは言えません。ただ、自分の望みを邪魔するような、仕事上のトラブルが多くなるのです。
課題を克服するためには必要な時期ですので、不幸ではありません。ですが、ここで簡単に諦めてしまえば、成功への道が閉ざされてしまう可能性もあります。
焦らずに落ち着いて解決してください。ときには勉強をし直したり、専門家の意見を聞くと良いでしょう。
悪い習慣や無駄な行動、悪い交流があるならば、今のうちにそれを断つことです。
何かと忍耐が強いられますが、今年学んだことは後で役に立ちますので、あとになって感謝することになります。
1915年、1924年、1933年、1942年、1951年、1960年、1969年、1978年、1987年、1996年、2005年生まれの方
トラブルや悩み事も増える年。かといって暗く憂鬱な年というわけではありません。むしろ新しい交際や取引が訪れ、恋愛やビジネスのチャンスが頻繁に訪れます。
ただ、それだけに苦労が増えるのも事実です。とはいえ孤独なわけではありませんから、心細くはないでしょう。
トラブルに身構えておくこと、迅速にトラブルを回避すること、他者に応援を求めること。できることをしておくだけで、チャンスが活かせるようになります。
最初は戸惑うでしょうが、慣れてくるまでの辛抱です。
1916年、1925年、1934年、1943年、1952年、1961年、1970年、1979年、1988年、1997年、2006年生まれの方
今年は成功の年となります。特に金運と仕事運です。しかし、今まで以上に謙虚にならなければなりません。そうすることで受け取った成功を継続していくことができるのです。
成功した分、できることが増えたり融通が利くようになりますが、ここはあえておとなしくしていることです。
また、恋愛運や結婚運はそれほどよくありませんので、そちらまで期待してしまうと失望することになります。
成功にともなって、トラブルも大きくなりがちです。どうにかなると思って高をくくっていると、名声を失いかねません。
消極的と思われない程度に、慎重に行動することが必要です。
1917年、1926年、1935年、1944年、1953年、1962年、1971年、1980年、1989年、1998年、2007年生まれの方
今年2018年は転換期。どう転換するのかは今までの自分次第です。
何かと問題が起きたりもしますが、努力してきた人ならば成果が出始めてもおかしくありません。何もしてこなかった人は、現状維持すらできず、何もなくなってしまうとも言えます。
経験や実力がダイレクトに表れますので、人によって大きく結果が変わってきます。
もしどうにもならなくなったのなら、自分の実力不足を認めて撤退することも悪いことではありません。しかし、そこから結論を導き出し、別の方法を確保しなくてはなりません。ただ逃げて
いれば損するだけとなります。
不動産や家族、スポーツに関することだけは、なるべく慎重になってください。
1918年、1927年、1936年、1945年、1954年、1963年、1972年、1981年、1990年、1999年、2008年生まれの方
喜び、祝い、愛に恵まれる年。ウキウキした気持ちでいられますが、じつは気力・体力は下降気味。
仕事、趣味、レジャーなどで楽しいことが増えるのですが、あまり欲を出せる状態ではありませんので、欲しいものだけを上手に選択してください。
あれもこれもと重ねてしまえば、過労になりかねません。
こういうときは、自分なりの使い分けができればよいのです。エキサイトしたい日とリラックスする日、使うお金と貯めるお金、人と会う日と一人でいる日。これらのバランスが取れていれば
大丈夫です。心に不満や怒りがあるときは、とにかく抑えるように心がけてください。さもないと、すべてが台無しということもあります。
以上、おおまかな占いではございますが、今年を良い年としていただく一助となりましたら幸いです。
本年も皆様にとって良い年になりますよう、お祈り申し上げます。
新年あけましておめでとうございます。
謹んで初春のお慶びを申し上げます。
旧年中は格別のお引き立てを賜り誠にありがとうございます。
本年も何卒宜しくお願い申し上げます。
当ブログでは毎年の年頭に、その年の日本を占うコラムを書いております。
本年もさっそく見ていきましょう。
今年2018年は、戊戌(つちのえ・いぬ)の年。干支から解釈すれば、大きな変化の年といえます。
しかし、大きすぎる変化は、大陸の動きのように、あまり感じ取ることが出来ないものです。
ましてや個人では、「いつの間にか変化していた」という感じかもしれません。
たとえば前回の戊戌の年である1958年には、今上天皇のご婚約が発表され、美智子様が初の平民出身の后となられました。また1958年は国際原子時の起点の年ともなり、アメリカ初の人工衛星の打ち上げもありました。しかし、このような出来事は、あまり個人には縁がなかったりするものなのです。
これは、戊戌の変化が、いわばグランドデザインの変更、価値観の変化であるからなのです。1598年の戊戌の年には日本では豊臣秀吉が死去したり、ヨーロッパではナントの勅令により信教の自由が保証されました。
しかし、もっと目に見える形での方向転換が起きるのも事実。特に商業や文化が変化する節目の年にもなります。
たとえば前回の1958年には、東京タワーが開業し、日本では広告も娯楽もテレビ時代に移行しました(それまではチャンネルを変えるごとにアンテナの向きを変える必要があったそうです)。それによってスポーツやファッションの流行も代わりました。
変化が起これば、それに対応できるものと出来ないものの明暗が分けられることとなります。
しかし心配には及びません。今回の変化は多くの人にとって、ポジティブなものになるのではないかと思います。そしてそれは世界人類の進歩として現れるはずです。
今回は、たとえばAIの大きな普及などが起こるのかもしれません。エネルギーの変化(石油時代の終焉)やメディアの変化(2018年10月31日に日本の「全放送局免許失効」)かもしれません。あるいは、貨幣経済の終焉(仮想通貨/電子マネーの時代)の元年になるのかもしれません。何が起こるかははっきりせずとも、薄々気づいていたことがハッキリとした流れとなるはずです。それは、古いものが衰えて、新しい常識が生まれる流れなのです。平成も今年が最後の年となりますが、それも偶然ではないでしょう。
一方で安全保障の面、つまり戦争の危機については、今年と言わずとも、その可能性が高まっていることは確かでしょう。なぜなら、価値観の変化とはつまり、政治経済のパラダイムシフトでもあるからです。ということはつまり、世界の勢力地図が変わる可能性すらあるからです。
新旧の転換に際して、ビジネスには非常に有利になる年でもあります。どこに人が集まるのか、何が必要なのかがハッキリし始めるからです。それをビジネスに繋げることができれば、今後数十年の繁栄につなげることすら可能でしょう。時代の流れを一歩引いて見極めていけるようにしたいものです。
個人としては、あえて時代の変化に流されるのも良いですが、自分を見失ってはいけません。右往左往したり立ち往生しないためにも、自分を愛し、自信を持つことが最も大事となるでしょう。
それでは次に、生年別の運勢を簡潔に見て行きましょう。
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結局のところ、依存物資は人を弱くしているということがわかります。
しかし表面的には、快楽、自由を感じさせるのです。
お酒は仕事でも、宴会でも、祭り、あるいは葬式においても大事なものかもしれません。聖書にすらワインが出るのだから、酒は良いものだと思うかもしれません。
その反面、人を蝕んでいきます。
アルコール依存症の人の話を読んだりするとよくわかります。
酒は大人の嗜みだから、良い大人なら適量をコントロールできる。そう言い聞かせるようになったら、すでに脳もコントロールされていると見たほうが良いでしょう。
「そんなはずはない、酒に強いやつは心も強い。」「大酒飲みの偉人も居た」とか、言う人もいます。
私自身もそう思っていました。
依存物質を避ける人と、依存物質を摂ってもそれに溺れない人、どちらが強いのか、それはわかりません。
しかし依存物質を取るか取らないか、どちらが良いか常に自分で判断できる状態になること自体が、自由だと思います。
もし可能ならば、たとえば煙草を週に2回だけ吸うとか、酒を年に1度だけ飲むとか、ギャンブルを数年に一度だけやるとか、砂糖菓子も半年に一回だけ食べるとか、そういうコントールができるのなら、それが良いのかもしれません。
しかし、私にはそれができないので、個人的にはきっぱりやめるのが良いと思っています。
私はいまだに、酒・タバコ・砂糖・ギャンブルでも、合法な範囲で依存すること自体は批判する気はありません。
他人がどうこうではないからです。他人の個人的なことにまで文句を言う嫌煙家などは逆に不健康だと思います。
逆に、「酒も飲めないのか?」「酒もギャンブルも無しで何が楽しくて生きてるんだ?」と圧迫する人もいますが、これも非常に惨めなことだと思います。
それは「一緒に奴隷になろう」と言っているのと変わりはありません。しかし本人はおそらく気づいていないでしょう。
結局は、自分の自由と相手の自由をどちらも尊重するのが、一番いい精神状態なのではないかと考えます。
ちなみに、酒や煙草は、古来から神聖なものと縁があります。しかし、だからこそ、不用意にそれらに溺れてはならないような気がします。
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身近で強力な「3大依存」、それは「煙草」「酒」「砂糖」だという説をどこかで読みました。
私はどれも摂取していませんが、別に自慢するつもりもありません。
気づいたらどれもやめてしまっていました(糖質は少しは取ると思いますが)。
麻薬などの依存と違って、上記の3つはどれも悪いと言えない、言いにくいものだと思います。
たしかにタバコに関しては社会悪とされていますが、実際はニコチンにも良い作用があります。
また、4大依存とすれば、「ギャンブル」も入るでしょう。
これも、ストレス解消になるとも言えますので、なかなか批判しづらいところがあります。
こうなるとやはり、これらを規制するべきではなく、市場原理次第、自然に任せるしかないのでしょう。
無理な押し付けをすれば反発があって当然でしょう。
ただ、これらをやめたり、自分で量をコントロールできるようにすることは、個人レベルでは大きなメリットがあります。
なぜなら精神的な自由度が広がるからです。
でも、以前の私にはそのことが理解できなかったのです。
かつて喫煙者だったころ、私には「煙草を禁止する自由」というものが理解できませんでした。
どう考えても、「吸える」ことが自由であって、禁止は不自由だと思っていました。
何かを出来なくすることが自由であるはずがなかろうと。
それに、煙草なんてやめたい時はいつでもやめられると思っていました。
しかし実際にやめてみると、3日ほどの間ひどい頭痛に悩まされ、さらに1ヶ月近く苛立ち、不眠、体の硬さなどを感じて、非常に辛かったのです。
それによって、自分がいかにコントロールされていたかを知り、吸いたいからこそ逆に吸いたくないと感じ、今に至っています。
つまり、自由どころか、束縛されていたのだと気づいたのです。
ところで、テレビのグルメ番組では毎日のようにスイーツや酒を勧めていますね。
旅番組や街歩き番組でもそうです。
そして社会的にも飲み会などがあります。
街に一歩出れば、そこらじゅうに誘惑が待っています。
一見するととても自由に見えますが、これも「自由」を履き違えてしまっているのだと思います。
企業側が、個人を束縛してコントロールしようとしていると見て良いでしょう。
しかし、長年の刷り込みが邪魔をして、そのようには見えなくなってしまっています。
続く・・。
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かつてアメリカの小学校で、ある実験が行われた。
青い目の生徒と茶色い目の生徒に分け、「青い目の人は優ているが、茶色い目の人は劣っている」と架空のルールを決めて過ごさせたのだ。
するとすぐに子どもたちの間で差別意識が露わになったという。仲の良かった子供も喧嘩を始め、終わったあとには「むごい」実験だとも批判されたという。
劣っているとされた子供たちは卑屈な性格になり、簡単な質問にも答えられなくなった。優れていると言われた方はのびのびとして、テストの点数も上がったという。
このジェーン・エリオットの実験はテレビや本にもなって非常に有名だと言う。人種差別の本質について明らかにし、それがいかに馬鹿げているかについて明らかにすることができたといえるかもしれない。
しかし私が注目したいのは、そこではない。それは、「優れている」と言われていた時に、実際にその生徒たちのテストの点数が上がったということだ。
人間は、自分を「こういうものだ」と信じたら、多かれ少なかれその通りになるのだ。
これは今まで多くの自己啓発書や宗教書にかかれてきたことと同じだが、上記の実験によって裏付けができたといえる。
小学生とは言え、客観的な形でそれがわかるのは貴重であり、それ自体が、私達のこれからの願望実現に有益だといえる。
もちろん、ここでは教師による裏付けがあったから、さらに効果も高かったのだろう。何も裏付けがなく、単なる自分への「優れている」という言い聞かせだけだったら、それほど効き目はないかもしれない。
だが少なくとも自己認識で自分が変わるのならば、いま現在の自分はどちらだろうか?
それを自問する意味はあるだろう。
はたして、「優れている」と思っているのか「劣っている」と思っているのか。
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五穀断ちの五穀が何かは諸説あるらしいですが、米・麦・アワ・ヒエ・大豆などのことを指すようです。私もこれらは今は全く食べません(大豆加工品を除いて)ので一応は同じです。
ただ、私の場合、とくに修行の成果のようなもの、たとえば何かの徳が備わったり霊験が現れるというような期待はしていませんし、実際そんなものは無いといえます。
おそらくですが、霊験があったという人は、もともとがかなり欲深いとか、悪の道に行っていたような人なのかもしれません。
そうでない限りは、大きな変化は起きないのではないでしょうか。
ただ、大なり小なり、欲が減ったり、怒りが減ったりすることはあるらしいです。
ちなみに私は糖尿病の治療をしているわけではありません。個人の意志でやっているだけです。そのため、どこかの流派の正統な修行法に則ってるわけでもありません。そのせいであまり効果がないのかもしれません。
そもそも前提条件として、苦行すれば徳が得られるというのがおかしいと思っています。
まるで何かのテストに合格するように霊的にステージアップできると考えていたら、それはおかしな話です。そういうものは非常に自分勝手で、人に優劣をつけるような思想になりかねないと思うのです。ですから、五穀断ちは霊的というよりは、心と体の健康法だ、くらいに捉えたら良いかもしれません。
ただ、これをはじめて以来、グルメの類には全く興味がなくなりました。
「あれが食べたいこれが食べたい」という気持ち自体がなくなって、自由になれたような気もします。
たまにTVをつけて、グルメ番組をやっているのを見ると「まだこんなことやっているのか」と呆れることもあります。「あんなものに心を奪われているなんて、なんか窮屈そうだなぁ」とさえ思います。もちろん、これも自分勝手な思想かもしれませんね。
ただ、自分では客観性が身についたような、観点の幅が広がったような気もします。
JUGEMテーマ:宗教
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筆者は普段、お米や小麦、砂糖を含むものを食べない生活をしていますが、江戸時代の占い師、水野南北も若かりし頃、似たようなことをしていたと言う話を聞いたことがあります。
水野南北は麦と大豆は食べていたという話なので、私よりかは幾分ゆるい規則ではあります。
彼は顔相占い師として有名になった後、さらに食事法を極めたと言う話です(手元に詳しい資料などがありませんのでうろ覚えですが)。
彼の本は現代語訳もあるはずですが、恥ずかしながら私は読んだことがありません。その影響は大きく、おそらく、後のマクロビオティックなどにも影響を与えたのではないかと推測できます。
時代をさかのぼれば、古代中国にはすでに”五穀断ち”という行がありました。これが日本に入って仏教や修験道などに取り入れられたのだと思われます。水野南北も間接的に影響を受けたのでしょう。
調べてみると、現代でも仏教や神道で五穀断ち(穀断ち)をしている人もいるようですが、果物や蕎麦や大豆は食べているようです。
私の場合は果物も蕎麦も食べないので違いますが、彼らの多くは、霊的な力を増す効果があるといいます。
私自身は、実はそれほど霊的な効果は感じません。
詳しく書くとまた長くなりますので次回に書こうと思います。
JUGEMテーマ:宗教
「悪霊なんて居るわけがない。」
普通の人はそう思いますが、それこそが悪霊の思う壺。でもこれは仕方のないことです。
逆に、悪霊に気づく人というのは、大抵、「どうして私はいつもこんなに不幸なのだろう?」と考えはじめて、いくらなんでも確率的に起こり得ないのではないか?というところまで来た人です。
ここまでいくと、悪霊の仕業を疑います。この場合、不幸でも悪霊に気づけてラッキーだったともいえます。
幸運でありながら悪霊に憑かれている人(むしろこっちの方が多い)は、気づくきっかけがないので、そのまま蝕まれていきます。
この不条理さ、理不尽さこそが、悪霊の存在の特徴ともいえます。
つまり、悪霊はいつも惑わしの手法を用いているわけです。そうすれば神から人を離すことができるからです。
悪霊は人に「あっちに行ったほうが良い」「いや、こっちに行ったほうが良い」と言うわけです。ですから、考えてみれば今の社会全体、情報の氾濫自体も悪霊的なわけです。
ただ、情報がたくさんある事自体が悪いわけではありません。それを取捨選択する際に悪霊に惑わされないように心がけることが大事なのです。
人によっては、「悪霊など信じているのは思考停止だ」と思うかもしれません。私自身、そう思っていました。
「なんでも都合の悪いことを悪霊のせいにしてる人は、反省もしない愚か者だ」と思っていました。
しかしそうではありません。「悪霊など居ない、すべての責任は自分にある」と云う考えが間違っていることもあります。
「自分の意志」というものに疑問を持たいないことのほうが、ある意味では思考停止なのかもしれません。
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もし悪霊が人に取り憑けばどうなるでしょうか?
単純な話、不幸を呼びます。ですが、見かけ上の幸運をもたらすこともあります。
たとえば、悪霊に取り憑かれた人が影響力のある人物になることもあります。心理学的にも、出世する人ほどサイコパスが多いといわれていますので、それも納得がいきます。
これによって、悪霊が人間社会に対しても影響力を持つことができます。
当人は、最終的には不幸になりますが、一時でも幸運を手にすることはできたわけです。
悪く言えば、悪霊に利用されたということです。
他に悪霊はどこにいるでしょうか?
まず、個人ではなく家庭に付く場合があります。親戚に何人も同じような不幸が訪れる、なんてこともよくあります。
さらに、前回書いた「神聖な場所にいるとされる霊」ですが、実はこれも怪しいのです。
これはあまり言いたくはありませんが、人々が崇拝する場所や物には、いつのまにか悪霊が居座って、すり替わっているということがあるのです。
神聖な場所とされるところなのに、なんとなく不気味に感じたとか、祈願したら逆に不幸になった、なんて場所があります。
他にも、偶像や古い仏壇などに、無関係な悪霊が住み着いていた、なんてこともあるそうです。
なにか嫌な予感がしたら、たとえ権威のある人や場所であっても、自分の直感を信じて近づかないようにすると良いでしょう。
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幽霊の正体は悪霊であると書きましたが、何も幽霊のふりをするだけが悪霊ではありません。
悪霊は、直接人間に働きかけて、人を操ります。
時には、人間にとって良いことや楽しいことすらします。
なぜ悪霊が良いこともするのかといえば、前回書いたように、彼らの目的は自分を崇拝させることだからです。
そのためには人間の得になることもするのです。
嘘や裏切り、扇動によってお金を儲けることができるのもそのせいです。
他にも現実的な例をあげますと、悪いことをしたら逆に人から喜ばれて自分もハッピーになった、なんてことがあります。違法なカジノを営業したりすればそうなるかもしれませんね。
不健康な食べ物を発売したら、多くの人に喜ばれた、なんてこともあるでしょう。こんなことが続けば、人間は何が良いことか悪いことかがわからなくなります。
こうした混乱や惑わしによって、「良心に従う必要なんてない」「自分がいつも正しい」と人に思わせます。そうすることで、人の信仰心(あるいは徳と言い換えても可)を失わせていきます。それこそが悪霊の魂胆です。
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前回の続きです。
幽霊否定派の人が、「過去に死んだ人の霊が全部居たら、霊が多すぎて大混雑してるはずだ。」とか「動物の霊も居たらキリがない」とか、「霊がいたら警察いらない」とか言いますが、それは的外れです。そもそも、過去の人が幽霊になるわけでもないし、動物は霊になりません。
その逆に、幽霊を見たという人が、霊能者から「それは地縛霊です」とか「動物霊です」というように分類を付けてもらって安心することが有ります。
信じない人にとってはそもそも馬鹿馬鹿しい話ですが、分類されると理解した気がして安心するものなのです。普通の学問なども、ある意味ではそういうものです。
私も前回は「霊」の分類をしましたが、こと"幽霊"に関しては、そのような分類をしたり、良い幽霊なのか悪い幽霊なのかを知ったところで意味はありません。なぜならそのほとんどが悪い霊、悪霊と呼ばれるものだからです。
では悪霊は一体何の目的があって出てくるのでしょうか。
悪霊の目的、それは彼ら自身を人間に崇拝させることなのです。(例外としては、中南米の一部の宗教のように、人間の術士が悪霊を使う場合もありますが、それも究極的には同じことです。)
なぜ悪霊は自分を崇拝させたいのに、幽霊のふりなんかするのでしょうか。それは、祟りがあるとなれば崇拝するのが人間の習性だからです。人間の社会でも、恐怖の対象を崇拝したり、褒めたたえたり、尊敬したりする人が居るのと同じです。
一方、人間に助言したり、同情させようとする幽霊もいますが、それらもみな目的は同じです。
悪霊の目的が、自らを崇拝させることにあるということを知れば、それに合致しない「幽霊」はニセモノであることがわかります。ですから、全く恐れる必要がなくなります。
ベランダに人影が見えたとか、ベッドの下に顔が見えたとか、そういうものは悪霊ではありえませんので、幽霊でもありません。そんな微妙な怖がらせ方をしたところで、崇拝する人がいるわけがありません。たとえば、ベランダやベッドの付近を礼拝するようになる人がいるでしょうか。
そう考えてみると、話題になってる心霊写真や心霊ビデオ、有名な心霊スポットなどは、全く的外れなものばかりです。暗くて人が居ない場所や海などに幽霊が出るとされるのは、単に死の恐怖に由来しているだけといえます。
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霊と言っても幽霊だけが霊とは限りません。
まず霊の中でも一番大事なのは、生きている人の霊でしょう。WHO(世界保健機構)でも、「健康」の定義の中に、「霊的にも健康であること」が認められているそうです。
ここでいう霊とは、生きている人の中にあるものを指します。つまり、広義で言う、性格とか内面と言われるものとほぼ同じです。ただ、あくまでも"広義で"ですので、厳密には違いますし、魂とも潜在意識とも違います。が、その分野の近くの存在と認識しても良いかと思います。
肉体と精神が健康で、特に病院に行く必要がなかったとしても、霊的には満たされていないという人がいる、と考えればなんとなくお分かりいただけるのではないでしょうか。
つぎに、幽霊でない霊としては、聖霊であったり、天使と言われる存在があります。聖霊と天使は全く違いますが、まずどちらも普通の人には馴染みがない(縁がない)ものです。
さらに、神聖な場所にいるとされる霊、精霊(聖霊ではない)もあります。これらはアニミズムの対象になることが多く、はっきり言えば、山、神社、結界、パワースポットの力もこの類です。
次にやっと幽霊の話になりますが、まず心霊現象と言われる現象そのものについてです。実は、これは科学的に解明可能なものが大半で、いたずら、あるいは幻覚がほとんどでしょう。
幻覚は脳や薬物の影響がありますが、他にも、非常に低い周波数が引き起こすものがあるといいます。たとえば8Hzほどの音が大音量で流れていても耳には聞こえませんが、視覚には影響をあたえることがあるといいます。
また、動物や人間が危険を感じた場所には、防衛本能を強める何らかの物質があるとも言います。それらが原因で、「霊感のない」人でも幽霊を見ることもあります。
それとは違う、いわゆる本物の幽霊と言われるものは何でしょうか?
基本的には、過去に死んだ人に由来するものとされます。
しかし実は、過去に死んだ人とは関係がありません。
と言っても、なかなか信じてはもらえないとは思います。ですが、あえて言いますと、幽霊の実体とは悪霊なのです。
悪霊とは何なのかはさておき、死んだひとの魂でもなければ、誰かの怨念がさまよっているのでもありません。
そう思わせているにすぎず、実際は無関係な存在です。
だから、事故現場で幽霊が出ても、事故で亡くなった人とは関係がありません。過去の軍人の幽霊なども、本人とは無関係な存在なのです。
一体なぜこういうものが目撃されるのか、悪霊とは何なのかについては、また次回続きに書きます。
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霊というものは、本当に居るのでしょうか。
信じる信じないは別として、日本には一般的に受け入れられている霊(幽霊)の概念と言うものがあると思います。
たとえば、守護霊だとか背後霊。あるいはまた、先祖供養しないと子孫が不幸になるとか。はたまた、恨みを持って死んだ人の霊が出るとか、地縛霊になるのだとか。
しかしながら、これらをそのまま肯定するのも、あるいは全否定するのも、どちらもちょっとおかしいことだと思います。
上記のような霊の概念は、もちろん地方によっても違うとは思いますが、物語やテレビ番組からの影響が大きいと思います。
昔の映画の影響で、UFOが円盤型ばかり目撃されるようになったり、宇宙人がみな「グレイ型」になってしまったのと同じではないでしょうか。
こうした、すでに出来上がった霊の概念が存在する以上、それに沿った話をすると相手に伝わりやすくなります。
それまで単に曖昧であったり不気味であったりしたものが、一定の納得できる論理の中に落とし込めるのです。
すると、宗教者や霊能力者たちは、自分が人々に受け入れられたいがために、余計にこの手の話をするようになり、それがまた広まってしまいます。
ここまであえて客観的に書きましたが、私は霊を否定しません。
では、霊(特に幽霊)とはなんなのでしょうか。
まず霊とは、多くの場合、理知的に納得できる形では存在していません。
たとえば、メディアに描かれる怨霊のように、何かの恨みを晴らすだとか供養することで消えるような、「AならばB」という論理の内側に居ないのです。
なぜなら、悪い霊とは、混沌、混乱、惑わしの側の存在だからです。
「こういうものだ」と言いきれないからこそ怖いのかもしれません。
しかし、霊を知っていれば、怪談話も心霊写真も怖くないし、怨霊などを気にする必要もなくなります。
次回また詳しく書きたいと思います。
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まず、ここでいう霊は恐怖の対象です。なぜなら、人は霊を死と結びつけるからです。幽霊に対する恐怖とは、要は死の恐怖にすぎないのです。
ですから、死の恐怖がなければ霊を怖がることもありません。
霊とは死者、つまり肉体を離れた人間なのでしょうか?
だとすると、怖がるばかりである必要はなさそうです。
日本人は無宗教の人が多いので、幽霊を否定する人も多いですが、先祖の霊や戦死者の英霊などに対しては一定の思い入れがある人が多いように思えます。
ですから実際のところ、日本人は霊を怖がるばかりではありませんね。
怪談話でも、日本兵や落ち武者の霊を怖がる子供は多いですが、歴史を知ると、むしろ会ってみたいと思うようになります。
ここで話を根本に戻しますが、この「霊」とか「幽霊」というものが本当に居るのでしょうか?
一体どういう存在なのでしょうか?それはまた次回書きたいと思います。
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1.死んですぐ
2.死んでからしばらく時間を置いてから
3.ずっと先
この3パターンがあり得る(とされている)ということです。
でも殆どの場合、生前の行いによって裁かれるわけです。
例外は、チベット仏教ならば、死後の四九日の間に修行できてれば解脱というパターンです。これならば、生前の行いが悪くても、死後の努力次第でなんとかすることは理論上可能です。
もしこれが真実ならば、日本の仏教のように、亡くなった人の亡骸に向かってお経を唱えるのも意味があるかもしれないといえます。
もう一つの可能性は、前回書いたように、死後にセカンドチャンスが訪れる場合です。
つまり、あの世にも救いがもたらされるということです。まるで芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のような話です。
しかし、それとて生前の行いが影響すると考えるのが道理のような気がします。もちろん、人間の道理があの世で通用するとは限りませんが・・・。
死後に名誉挽回・無罪放免のチャンスがないのなら、「せめて生きている人たちにメッセージを」と思う死者もいるでしょう。
しかし、来世から現世に重要なメッセージを伝えることは、ほぼ不可能です。
イタコのような存在は居ますが、来世に役立つような核心的なことを伝えることはまず不可能です。
聖書の「金持ちとラザロ」の金持ちが、死後に親族にメッセージを伝えられないのもそうです。
実際、死後から重大なメッセージを受け取った人がこの世に居ないのも状況証拠になります(臨死体験者は死んでいないのでまた別です)。
となると、お盆に死者の魂が帰ってくるといっても、それこそ「草葉の陰」的なところから見ている程度しかできません。でも、それで良いような気もしますね。
ところで、人間は生まれ変わったところで過去生を思い出せないわけですから(退行催眠はまた別です)、前世の教訓というものはありません。つまり、前世からも来世からも学べないのです。すなわち、結局は今の目の前の人生をどう生きるかが問題だということになります。
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ほぼすべての宗教で、人は死後にさばきを受けることになります。
三大宗教はもとより、ヒンズー教でも、マヤ神話でもゾロアスター教でも、道教ですら死後の裁きはあります。(裁きが無いのは神道やケルト神話くらいでしょうか。)
裁きを受けるのが死後のいつになるのかは諸説あります。死んですぐという場合もありますが、チベット仏教では49日後、キリスト教では審判の日ということになります。
裁かれたあとは、天国に行くか、生まれ変わるか、あるいは地獄に行くかどれかですが、一度黄泉に入った者が天国に移動することが出来るかどうかは意見の別れるところです。
基本的には、一度黄泉に入ったら天国へ移るのは難しいでしょう。
慈悲深い神(か仏)がいてくださるとしても、黄泉から(あるいは無、あるいは地獄から)天に引き上げてもらうこと(セカンドチャンス)は簡単ではないような気がします。
ただし、聖書にはイエス・キリストが黄泉に下って、そこに居た人を天に引き上げる記述がありますから、「セカンドチャンスがある」とする説も根強いです。
ですが基本的には、天国に行くはずの人(信仰心ある人)は裁きを受けず、死後すぐに天国に行くわけです。となると、その他の裁かれた人たちは地獄へ捨てられることになります。
一体どちらが正しいのでしょうか。
もちろん、「そんなこと誰にもわからないのだから、こんな話は無意味だ」と思われるのは百も承知ですが・・・。
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善人だった人が死後に行く場所が「リンボ」と呼ばれる場所です。言葉の意味は地獄の「辺縁」ですが、地獄ではないので、ここでは便宜上の名前にすぎません。
ここはすくなくとも過ごしやすい場所なのは確かなようです。天国ではありませんが、パラダイスなのかもしれません。
ここは今もあるのかどうかは不明です。なぜなら、イエス・キリストが天に運んでしまったとも考えられるからです。
ところで、よくネットで見かける話ですが、昔の日本で、ザビエルに向かってキリスト教の矛盾をついた人が居たという話があります。
いわく、「洗礼を受けず死んでしまったご先祖様はどうなっているのか?」と。これにはザビエルも困ったという話です。
ですが、ザビエルは困る必要はなかったといえます。もし善人であったのならば、良い場所(つまりこの「リンボ」)に居ると考えても良いからです(聖書的にも)。
このリンボは、ダンテの神曲と違って地獄ではありませんが、かといって天国でもなく、あくまでも黄泉の一部。なんだか、仏教でいう六道の天道を思わせなくもありません(良い場所だが極楽ではないから)。
私個人の考えですが、あの世と現世は、ある程度似たような世界であると思います。臨死体験ではありませんので、幻視にすぎませんが、この世と同じテクノロジーも存在する場所に思えますし、良い生活の人もいれば悪い生活の人も居ます。
もちろん、単に妄想だと思われても仕方ありませんね。
次回は、黄泉の先の話になる予定です。
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昨日の記事では、「あの世」は黄泉だと書きました。
では、黄泉に行った人間は、その後どうなるのでしょうか?本当にお盆だけ帰ってこれるのでしょうか?
しかしその前に、黄泉とはどんなところなのかを、お話しなければなりません。
私はまだ行ったことがないですので(笑)、非常にぼんやりとしか書けないことをご了承ください。
道教・儒教的な世界ですと、死者は見えないだけでそこらに居る(草葉の陰)のようですが、黄泉(ハデス)は明確にこの世と別れています。
ただ、黄泉の世界が地下にあると言われると、この地面の下にあるかのようで、どこかでつながっているようでもあります。
地球内部にあるというのでしょうか?流石に信じがたいことですね。以前、ロシアの地下十数キロメートルから「地獄の音が聞こえた」なんて話もありましたが・・・。
それはさておき、日本人的に考えるとイザナミの行った黄泉の国はあまり良い場所とは思えません。
一方、一神教的世界におけるハデスは、良い場所と悪い場所があったようです。
(ちなみに、世界の神話の勉強をしたいわけではないので、細かい話は抜きにして、理解できる限りで書きます。)
黄泉の世界に、良い場所も悪い場所もあるというのは、簡単に言えばダンテの神曲的な世界なのかもしれません。善人だった人の居る所と悪人だった人の居る所に別れているようですが、悪人がいるところが地獄なわけではなく、そこも黄泉です。そこは神曲とは違いますね。
ただこの、いろんな世界に別れた黄泉(ハデス)とは、仏教的な六道ともつながるようにも思えてきます。
続きは次回。
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今年もお盆の時期になりました。
最近では昔と違い、霊を恐れたり怪談話をするということも少なくなったかもしれません。
夜中まで起きている人が増えたせいか、夜と死のイメージも離れつつある気がします。
ただ、人が死んだらどこに行くのか?無になるのか?という疑問はいつも同じです。
死後を「あの世」という漠然とした観念で捉えるのは、日本人向きな気がします。
はっきりさせるのは性に合わないと思います。
が、いつのころからか西欧的な「天国」を口にする人が多いような気もします。
天国という言葉自体は日本にも古くからあると思いますが、最近では、なにか白いローブを着て雲の上にいて光があってというようなキリスト教的なものになっているような気がします。
そして、「天国から見守る」とか「天国で元気にしていて」などと口にしますが、どこまで本気なのかはわかりません。「細かいことはいいじゃないか」ということでしょう。
はたまた、「地獄に堕ちる」などと言うことばもあります。これは昔からある概念です。しかし、最近の人は地獄に堕ちる心配をする人はかなり減っているような気がします。
ところで、臨死体験についての体験談が流行ったこともありましたが、ああいうレポートはどうもサンプルに偏りがあります。マスメディアを通した言説の中には、なにかしらの「宗教観」、いやむしろ「無宗教感」が計画的に植え付けられている可能性も高いです。
ところで、実際に人が死ねばどうなるのでしょうか?
多くの人は黄泉(よみ)に行きます。ハデスともいいますが、簡単に言えば異世界であり、ただただ死人の世界といえます。良い場所もあれば悪いところもあるでしょうが、基本的にはあまり良い場所とはいえないでしょう。
でも、今を生きている人にとっては、目先の人生のことが大事と思うでしょうから、やはり「あの世」くらいの感覚でいたほうが良いのかもしれません。
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旧年中はご愛顧を賜り、厚く御礼申し上げます。
本年も何卒宜しくお願い申し上げます。
当ブログでは毎年の年頭に、その年の日本を占うコラムを書いております。
それでは本年もさっそく見ていきましょう。
どこで最初に言われたのか私には定かではありませんが、ある大学の調査が元になっていると言われていたり、そのものズバリのタイトルの本が有名になっていたりと、今となってはすでに定番化したメソッドのようです。
この説の出処や、吹聴している人たちについての雑感などを書きはじめると、無駄に長くなりそうですので、私なりの個人的な意見を軽く書きたいと思います。
つまり、"夢を紙に書くと実現するのは、ウソかホントか"、ということです。
商品デザインはリンク先でご覧ください。こちらでは念のため伏せております。
なお、Tシャツは印刷ですが、霊符のデザイン自体は、古来の書き方に則って、当店で責任をもって正確にフリーハンドの手書きで書いております。
霊符の知識が必要なため、おそらく類似のものでさえ、他では販売していないとおもわれます。
運気アップを目指す皆様は、どうぞこの機会にお買い求めいただければと思います。
よろしくお願い致します。
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